中本ミヨさん(86歳)もサポーターに
「人の役に立つことが生きている甲斐です」
男女差別裁判・最高裁で勝利した中本ミヨさん(86歳)
  
 4月10日の日曜日、サポーターになってもらおうと中本ミヨさん宅を訪ねました。
 当年86歳、女性差別を許さないと裁判に立ち上がって、24年前最高裁で勝利判決を得た人です。家に引きこもりがちの生活を送っているというのですが,「サポーターになって下さい」というと、「人との役に立つことやっていなければ人間として生きている甲斐がないので何かやりたいと思っているのです」との返事でした。
 「どんなたたかいをしたのですか」と聞くと、ながいたたかいを振り返りながら、当時を思い起こしながら話してくれました。
 「勤めていたプリンスは差別のない、全金の組合の強いところでしたが、日産と合併して、多くの差別が持ち込まれ、同時に組合を抜けろと暴力を振るわれてそれとの大闘争がありました。そこで、日産の定年制男女差別に反対して、たたかったのです。日産並に給料を下げてくる、それはひどい差別の持込でした。私は裁判当然やるだろうと思われていました。工場の入り口には日産の組合の入門阻止隊が立ち、国公、自治体の労働者が支援に駆けつけてくれて入門闘争です。『おばさん五十歳まで働けばいいんじゃないか』と半分冗談を言いながら支援をしてくれました。
 一審(71年)では負けました。判決には『本来女子は男子に劣り』とあり、男女差5歳の差別は社会通念上許されるとしていました。そしたら中嶋道子弁護士が支援に来てくれました。運動にとりくむ中で「一歳の差別は一切の差別に通ずる」とのスローガンを生み出しました。2年後、男女定年差別で二つの判断がでました。勝った判決は『差を設けるにはそれなりの合理的な内容が必要』としていました。
 判決の後、会社は女性の50歳定年制を改めてきました。定年を女性は55歳に、しかし男は60歳にして差別は残したのです。
 そのときの組合の大会が大変でした。組合大会の前夜、組合の委員長が訪ねてきて言ったのです。『中本さんはだめだといってもたたかうのだろ』と私は『支援も受けているし、やるしかない』と答えました。この委員長とは青年部長と婦人部長で何十年も喧嘩してきた仲、大会では『55歳までのびたのだからいいのではないか』という意見も出て、議論はもめました。そうしたら議長をやっていた委員長が『議長が裁決する、賛成多数』と発言して収まったのです。責任はとるという決意がみなぎっていました。
 「最高裁で勝ったとき、ほとんどの新聞の夕刊一面を飾ったのです」
 「最近、女性差別の裁判で勝利を勝ち取っていますが、どう思いますか」と聞きますと「相手は相変わらずのことをやっているという感じ」。私が裁判の一審で負けたときの理由は「給料は対して差が無く、社会通念上許されるというものでした。そのときも常識を変えなければと思いましたが、全体を変えなければということですね.もっと大勢の人が闘いに立ち上がらなければ、常識とならないのですね。
 日本航空の女性の30歳定年制裁判もそうでした。会社の理由は30歳になると容色が衰えるから、30歳定年制としたというもので、そのときの判決が「30歳で容色が衰えるとまではいえない」というもので、「とまではいえない」と笑えない話を笑ったものでした。
 「何かあれば、お役にたちたい」とまだまだ意気盛んで、たたかいの記録「去れど忘れえぬ日」をプレゼントされました。
(かも記)